Block House

exhibition

レディオ・ブロンド1

2014年05月12日 > 2014年05月24日
exhibition
「レディオ・ブロンド1」
ヤマモトシゲキ・デコレーションワーク2014

ヤマモトシゲキの記憶の箱に堆積した色と手触りと聞こえない音楽の断片、風や雨にさらされて風化したものたち、退行したイメージがブロックハウスの光に触れて感光する。122枚のPhoto Piecesとルーシー・ブロンドの肖像と呼ばれる8枚のPhoto Pictureが飾られたその場所で進行する事件としての行為、あるときはモノクロームの静けさの画像に官能性が溢れだすかの如くショートムーヴィーが撮影され、またある夜にはかつては女と男であった断片が合わさり化ける、その瞬間はカラフルな写真として捉えられ、1枚のタブローな印刷物へと変幻するだろう。魂が交感する場所としての教会、教会みたいなスタジオとしての「レディオ・ブロンド1」、お待ちしています、ブロックハウスにて。

あなたという未知の存在が巻き起こす行為こそが作品なのです。
デコレーター・ヤマモトシゲキ


「レディオ・ブロンド1」describe

・Don't Smoke In Bed

「new Africans、サバンナにキリンが2つ並び、首を傾げているように、サテン地のシーツが白く波打ち、広大なベッドに男と女がファミリー・プロダクトのご満悦!
こんにちは、ルーシー・ブロンドです、「ベッドの上は天国、ベッドの上で未来はつくられる」は原宿のミステリアス・マザー、キョウコ・エレーナのご好意とmany many Love によって放送されています。

さてさて、きょうはゲスト・パートナーにデコレーターのヤマモトシゲキさんをお迎えしました、どうぞシゲキ、あっ失礼、初対面なのに。」
「こんにちは、なんかすごい!ですね、原宿の明治通りから少し入った場所の不思議な建造物ってイメージでたどり着いたんですが、ぼくの想像していた放送局のスタジオじゃないです、これ!

なんていうか、ルーシーさん、いやルーシーって呼びますね、あなたの創造した世界に招かれた気分、あるいはサバンナに紛れ込んだ小鹿になったような感じかな。」

「シゲキ!それはあたしが小鹿をいたぶるライオンって意味?」

「いや、そんな意味じゃないんだけど、ドアを開けるとただただ一面のベッド、まるでアフリカの草原のように白いサテン地の波が地平線に向かって伸びている、さっきまで明治通りを歩いていたのに、ここはぼくの知っている「現実世界」の物理的スケール感から「逸脱」してる、もしかして時間軸もねじれてる?」

ただただベッドな世界、そこには「過剰」に用意されたものがなく、内的なクリエイティブの種となるもの、種を温める空間と行為の隙間が残されている-ミカエルの言葉a

「ところでデコレータって何なのかしら?気になるんだけど」
「う~ん、あんまり考えたくないというのが本音なんだけど。しいて言えば、高級コールガールみたいなものかな?その高級コールガールと依頼者の間にはなんの恋愛的プロセスもなく、簡潔かつスピーディーにシークレットにコンタクトが取られ、その時間が終わってしまえば何の痕跡も関係性も残らない。ただその濃密な時間の記憶だけが誰に共有されることなく残る、もちろんそのクラスにもなれば世間的なマーケットの基準からも「逸脱」している、何にも束縛されず、ただただ感じたことの記憶のみが崇高に残る。デコレーターもそうでありたいと思う、その人がある瞬間に感じ取ってしまったこと、それが記憶の箱に滞積され、時間を経て化石のように流れて変化してゆく、固定化して定着することはない、ぼくの提起するデコレーションはそうでありたいな。」
その時

・Plain Gold Ring

が歌われて
それは57年のニーナ・シモンの切なる願い、そして彼女の趣味の良さが輝いて、思わずシゲキはその指先に愛撫しそうになる。
「ルーシー、あなたのその指先、そうお姉さん指につけられたゴールドのリング、けっして新しくはないけど不思議な透明感にあふれた輝きが目を惹く、でも悲しい気持ちになる、そしてあなたのやはり不思議な透明感に貫かれたブロンドの髪の存在感が気になる、それはあなた自身なの、それとも秘められた物語なのかな?」
「ふっ~、シゲキあなたは高級コールガール、でも時には気紛れなデリバリーカウンセラーにも変身するって訳ね?」

「たぶん、わたしのブロンドヘアはゴールドリングと共鳴し、バランスを取ることで生きていると思うの、わたしだって生まれつきブロンド娘だった訳じゃない、あなたは覚えていないみたいだけど2009年の春、「はすとばら」と呼ばれるお屋敷で開かれた「After Many Many ブロンド女とナッシュビル」というパーティーで会っているの、そうブロンドじゃないわたしと、今じゃどんな色の髪をしていたか思い出すことさえできないけど。」
「そうか!あのパーティーでぼくは20世紀のMany Manyな馬鹿騒ぎにお別れのキッスをしようと出かけたんだけど、20世紀という老いぼれのモンスターからディープキッスの逆襲を受けて倒れてしまった記憶しかないんだ。」

・Love Me Or Leave Me

時には母のない子のように、元気溌剌のルーシー・ブロンドだって泣きたくなることもある、彼女のロストしたもの、ロストした時間の日々など。

「毎日毎日、波打ち際を歩いた、寒くて風の強い冬の海、あんなに海を見つめたことってないわ、眺めるんじゃなくてひたすらにエネルギーを集中して擬視し続けた毎日、娘を捜すためにただひたすら歩いた、どこまでも歩いた。」
「ごめんなさい、ぼくは気の利かないデリバリーカウンセラーかも知れない、それはどういうことなんだろう?やさしく話して。」
「娘が海に消えたの、多和田葉子は海に名前を落としたみたいだけど、そんなもんじゃない!ある日突然に。そして悲しみ、重苦しい悲しみの日々が繰り返され、そしてわたしは波打ち際を歩き続けた、そんなある日、ストレンジな体験が襲ってきたの、けっして動きを止めることのない波のざわめき、その微かな波間に娘の姿を見つけようと必死だった、もしもわたしの娘が海に漂っているならば、海それ自体が娘の存在の延長であるような感覚が溢れてきて、娘に対すると同じように海それ自体に愛を照射しながら波の動きを見つめていたら、波たちの繰り返される、でも複雑なムーブメントが音楽に感じられて来たの、視覚イメージが音響的、音楽的図形に置きかえられてアタマのなかでリピートし始めたの、最初は複雑なミニマルミュージックだと思ったんだけど、よく聞くと☆Ravelの「水の戯れ」に似ていたの、それは娘に良く聞かせていた曲だったから悲しみのあまりに、そう信じることに救いを求めたのかも知れないけど、デリバリーカウンセラーさんはどう考える?」

・My Baby Just Cares For Me

ルーシーの髪と娘の名前、ふたたびニーナ・シモンの歌

「たぶん、娘とわたしはどこかで通じ合っていると思うの、いまだに。」
「娘の名前はshe、わたしは語感に特別な想いがあるからこの響きをセレクトしたの。わたしもかつて子どもの頃、ピアノを習っていたわ、音楽が好きだと自分では思っていたし、イメージ通りに弾けるとうれしかった、でも周囲のレスポンスは変だった、なにか理解不能なものを前にして怯えているみたいだった、そしてわたしはピアノをやめたの。」
「ルーシー、お話をつづけて」

「ありがとう、シゲキ、長いお話でごめんなさい。あとで何年も経ってから突然わかったことがあるの、みんなはピアノの響かせる音を音楽として聞いてイメージしてたんだけど、わたしは違った、指が鍵盤に触れたときの感触や重さやタイミングの触感の図形イメージみたいなものが音楽として鳴っていたの、だからだれにも理解されなかったわ。」
「ルーシーちゃん!いろんな感じ方があるのだと思うよ、人の感じ方は限定的なものじゃないんだ、ぼくの好きなユジェン・バフチャルは14歳で視力を失った全盲のカメラマンなんだけど、彼は見えていた時の視覚体験を基調に、アシスタントの手を借りて撮影するみたいなんだけど、彼の写真を見ていると見ること、あるいは感受性というものはその対象との関係性の象徴化ではないかと、その象徴化されたものを通じてまた別の誰か、なにかと関係性を取り結べる、彼の写真は人の手、イメージを媒介することで多層的な表情と価値観を表現してて、表現って対象に対する爆発のようなエネルギーのベクトルではないじゃないかな?」
LOVE:赤い血がながれて、ジョセフィンが歌う、アフリカの大草原みたいに広大でフカフカのベッドの上で2人、ルーシーとシゲキ.

「あたしは全盲のカメラマン、耳の聞こえない作曲家、インポテンツのAV男優、みんなまとめてI LOVE YOUよ! シゲキ的には「不完全さの多様性」こそが21世紀的な価値観って言いたいんだろうけど、わたし自身にも娘のsheをなくしたことの地殻変動が起きている、わたしから抜け出したものがあり、わたしに入り込んだsheが感じられるの。」
「たしかに、ルーシーの独特なチャーミングにさえ思えるアンバランス感はそこからやって来てる?」
「sheが消えて、ゼルダ・フィッツジェラルドみたいな神経症的な馬鹿騒ぎの夜は卒業したわ、そのとき、わたしの内面に堆積していた20世紀の着色料が流れ出し、髪の色も抜けてしまった、わたしは20世紀というMany Manyでスピーディーな完結性を求める価値観を捨てたの、そしたら、自分自身をseaとして海に同化する衝動を抑えきれずに海に消えてしまったsheがわたしの中にリンネしたの、わたしはsheをわたしの中、わたしというseaにつなぎとめるために名前をR☆sheと変え、ファミリーネームはわたしのヴィジュアルを象徴するBLONDEにした、そして1957年のニーナ・シモンが彼女の崇高なヴァージン性を封印するかのように歌い上げた「Plain Gold Ring」を薬指にはめ続けることにしたの、「R」にまつわるものには汚れを落として持続するチカラが宿っているから、カタチあるものにも、名前みたいにカタチのないものにもね。」

Mother Is Sea.Sea As Mother.Mother Is Sexy?
「もう一度ジョセフィン・フォスターを聞いてみない?ルーシー」

「さっきの赤い血ね、変わった歌い方、素敵なスタイリングの洋服、なにかオーラがあるね。」
・I have red blood わたしには赤い血がながれてる、赤い海、香り立つ豊潤な液体の永遠に続く旅、永遠に続かない旅
ルーシーとシゲキは旅に出た、永遠に続く旅、たぶん果てしないベッドの上の旅。
最初に出会ったもの、まるでD&Gの広告物語をおもわせる虚構が濃厚に立ち昇る天国世界、2人はのぞき穴の向こうで展開される光景こそが「現実」にふさわしい時間なのだと無言のアイキャッチの瞬間に合意する、ジョセフィン・フォスターとヴィクトール・エレーロの幸福な「逸脱」、アメリカからの。
強い風が吹いている、けっしてやむはずのない風、無口な父と娘、そしてやる気のない一頭の馬、そこには20世紀のショーウィンドウに並べられていたような「喚起する欲望&欲望の満足」は登場することなく、ひたすらの強風とエクスタシーなど無縁に繰り返される動きだけが饒舌に語りかける風音の中で流れてゆく、タル・ベーラの「ニーチェの馬」という時間、時間という捉えどころのないざわめきが手触りを持たされたという驚き、時間の流れに顔があったとは、ルーシーとシゲキは手を握り合った、興奮と驚きで皮膚が湿っていた。
かつてダンテが旅したようにルーシーとシゲキは「そこ」にたどり着いた、かけ離れていた、そこには20世紀と呼ばれた惑星の空気は存在してなかった、ニコラス・ウィンディング・レフンが発見した「ヴァルハラ・ライジング」という独特な美しさを匂いたたせる惑星、あまりに遠く離れてしまった、20世紀という惑星が何億光年かなたに微かな、でもPopな光の感触として感じられる。
「すごく遠くまで来ちゃったね!でも振り返らないでね。」

「ルーシー、ぼくは未知のものに憧れる、いつだって。」

二人は顔を寄せて笑い合った。

・Give me the flower

君のことは愛していた、ときおり見せるPopなしぐさが好きだった、さよなら20世紀。
・Romance de abenamar
なんてロマンティックな!!21世紀。

(skyblue44.blog60.fc2.com)

IN MEMORY OF ☆she☆
JULY.1988-AUGUST.1988
Latest